昨年末にようやく『チャリングクロス街・・・』を読み始めて、
読みながら年を越し、年明けから色々本を読んだ。
その中でも最も印象に残っているのが
死神博士の書いた『スペイン巡礼』だ。
ちょうど長谷川きよしがヨーロッパへ渡り
名盤『遠くはなれたおまえに』を録音していたあの頃、
もう一人の日本人がスペイン全土を旅していた、その記録。
まあ大抵は音楽か食い物の話なんだけれども
彼独特の感覚で旅人の毎日が綴られて行き
決してお金持ちの豪遊ではないある意味での貧乏さ加減がとても良い。
続編もあって、皆さんに是非お勧めしたい一冊。
美しい『白い町』の中の坂道を登って行き
これまた美しい国民宿舎に辿り着く件など、
『いったいどんな美しい風景なのだろうか』
と思わずにはいられないのだが、
ここでふと思いついた。
今や我々にはグーグル先生がついているではないか。
グーグルマップで眺めてみたらどうかしら?
いやいや、もしかしてストリートヴューがあったりなんかして・・・
いや、これがね、結構あるんですよ、ストリートヴューが。
ある程度有名な観光地ならまず間違いなくあるね。
ああ、この坂を登って行ったのか。
ああ、この高台からのこの眺めを見たのか。
ああ、これがダリの家か。
とまあ、そんな具合でしてね。
いやあ、本の書かれた70年代には考えられなかった事ですが
これこそ現代的な読書ですかなあと思った。
80年代に本とカセットテープを融合させたものが一般人の視界にも入って来て、
90年代になるとこれに動く映像が加わり、更に近年のいわゆる電子書籍。
読んでいてわからない単語などはすぐに web で検索し、
文中に現れる地名をクリックすれば彼の地の画像が表示される・・・
やはり電子書籍のヴューワはデュアルディスプレイでなければいけない。
画面を2分割するって手もあるけど、なんだかなあ。
検索結果は 2nd ディスプレイに表示し、本文はそのままの方が良いだろう。
活字の旅行記でさえ『居ながらにして海外旅行気分!』だったが
ましてや現代の電子書籍である。
ストリートヴューで自在に歩き回れるとなればこれはもう本当に旅した気分である。
いやあこいつは面白いぞと思いつつも、何かが引っかかる。
素直に喜べない。
本当にこれが『現代の読書』なのか、と。
確かに得るものは大きいだろうが
数学の教科書だって詳しけりゃ良いってわけじゃない。
何でもかんでも『分かってしまう』のが果たして良いのか。
自分の脳の中で行間を補完する作業が失われて行く。
有り体に言えば想像力の入り込む余地が消えてゆく。
かつて John Dewey はこう言った:
書物は経験の代用物としては有害なものであるが、
経験を解釈し拡張するうえにおいてはこの上もなく重要なものである。
ージョン デューイ 『学校と社会』 宮原誠一訳 岩波文庫
そう、有害なのだ。
これで『経験した』と思ってしまっては
思わぬ陥穽に嵌まるのだ。
だとすると旅行記に於ける情報量の増大は何の必然なのか?
単に増大させる技術があるからそうしているだけなのか。
しかし将来生まれ来る子供たちにとっては
『書物』とは液晶ディスプレイに表示される何かであり
これほどまでに増大した情報量ですら単に初期状態でしかない。
そのうえでいったい何をしようって言うんだ?
そこには埋めるべきどんな行間が残されているのだろうか。
僕たちにはまだそれに適応するだけの能力が残されているのだろうか。


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