1er étape 2eme étape

9/21/2011

自由

僕は案外ゲームが好きだ。
でも貧乏だから(?!)ゲーム機なんて買えません。 
幸いネット上にはネットゲームと云う物がありまして
僕もその恩恵に浴する者であります。

ゲームと云えば昔はよく麻雀もしましたし、とても好きですが
残念ながら今はそう云う人間環境にありません。
従って今はシューティングゲームしかやらないですね。
しかも特定の。
やっぱゲームと言えばシューティングゲームですよ。
何たって80年代中学−高校生ですからね。 


それは一風変わった名前のゲームで、『某知恵袋』と言います。
内部は幾つかのステージに分かれていて、そこの数学と云うステージに行ってみる。
すると毎日毎日、これでもかと言うぐらいに新しい敵が出現しており、
多くのプレイヤーが次から次へと現れる敵を撃ち落とすのに必死になっている。
そう、質問と云う名の敵を撃ち落とすわけだ。

案外回答者も沢山居て、簡単な問題だとすぐに回答がついてしまう。
そう、時間との戦いなのだよ(ははは)。
でも簡単な敵では満足度も低いか。
中には登場して数週間、誰にも撃ち落とされずに漂っているモンスターも居る。
ああ、全く相手にされていない雑魚も居るけど。


別に『得点』にこだわっているわけじゃないけど
まあ、一種のシューティングゲームとしては良く出来ているな。
全く想像も出来ないような強力な敵が出現する事もたまにあるし、
世間ではどう云う問題が『分かりにくい』のかも何となく分かってくる。
質問および回答のレヴェルが低い事も参加者の敷居を下げているので
ネットゲームとしては大切な点だと思う。
他の質問掲示板のように『マジ』になってしまうと
質問する方も敷居が高いし、
回答する方もゲームとしては面白くなくなってしまう。

ちょっとした気分転換にはお勧めですね。

で、季節柄、こんな質問があった。
夏休みに数学で自由研究をしようと思うのだが
何を研究したら良いか分からないので
誰か何かネタを提供してくれ、と。


まあ、要するに、自由にやれと言われて
どう自由にしていいのか分からないと。


問題はどこにあるのか。
おそらくそれは数学に興味のない人にも
数学を自由に研究する事を強いている事にあるのだろう。
『自由に研究する』自由はあっても
『研究しない』自由はないらしい。
おかしな話だ。
結果、興味の無いことを『自由に』研究する、と。

まあ、百歩譲って数学に興味のない学生に
数学に興味を持つように強いるのは良しとしよう。
そう云うプログラムなんだからね。
文部省としての方針何たらもあるんだろうし。
でもそれに『成功しなければならない』わけではないはずで、
結果として数学に興味をもてなかった人が居るのは当然の事だ。
でもこの『自由研究』の出題者はそこをあえて見ようとしていない。
見えないわけではないでしょう、さすがに。


自由と云うものは、それを欲している人にとっては
かけがえのない宝物なんだろうが、
それを欲していない人にとっては
ただの地獄にしかならないのかも知れない。


でもつい言ってしまうんだよな。
どう手をつけて良いのかすら分からないでいる学生に
『だったら好きなようにやってみなよ』って。
『思った風に素直にやってみれば』ってさ。


だったら数学なんてやらないよ。
それが素直な心だ。

そもそも人間は数学に興味をもたなければならないのか。
そんな事はないだろうけれども、
でも数学に興味をもたない人間にならなければいけないわけではない。
むずかしいな。


個人的な仮説として、人間は本来色々な事に興味をもつのだと思う。
もしそうであるなら数学にだって興味をもつはずだ。
小学生ぐらいならどうだろう。
でもある程度の歳になると数学に全く興味を見出せない人の集団が出来てくる。
まあそんなもんかと言えばそんなもんなんだろう。
でも何かやっぱり腑に落ちないところがある。
僕の仮定が間違っているだけなのかな。


逆に考えて、人間がある事柄を提示されたときに
『それには興味がございません』と胸を張って
言うようになるのはいつ頃からなのだろうか?
そしてその原因は?

話の収拾がつかないのでここまで。

話は変わりますが、例のシューティングゲーム(笑)。
先日、大学時代の友人(現教師)と話していた時、
彼がこのシューティングゲームに言及されましてね。
何やら『知恵袋』と云う物があって、
数学の(多くは受験問題、学校の宿題)質問が沢山投稿されていて
しかもそれらにご丁寧に回答を書いている人たちが居るらしいぞ、と。
どう云う暇人たちなんだろうね、と。

ああ、その暇人というのは僕の事ですか、と。
まあゲームとしてじゃないと確かに魅力はないかなと言っておきましたが、
案外僕はこのゲームと云うものに教育的魅力を感じているんですよ。
現在の日本(まあ、日本に限った話ではないでしょうが)では
教育と云うものはほぼ学校と云う形式に牛耳られてしまっていて
勉強は学校(形式としての)で、と云うことになってしまっています。
まあ、もちろんそこからドロップアウトする人も居るわけですが
大雑把に言えばそう云う事になっています。
でも何かを知りたい人が居て、また同時にそれを知っている人が居て、
たまたま知り合いでもない限りここにはマッチングは起きなかったはずでしたが
インターネットが普及した事でそのマッチングが可能になっているように思うんですよね。
知りたい人が居て教えてもいい人が居るならそれで良いではないか、と。
別にそこにビジネスと云う形式や学校と云う形式が発生しなければならない必要性はないでしょう。
別に学校を経由しなくても師匠を見つける事が可能になっていくんじゃないかな。


資本主義と云う形態が世界の半分ぐらいは掌握しているのかな?
細かい事はよく分かりませんがまあ、いいでしょう。
で、資本主義の特徴は『資本主義以外を許さない事』であるように思うんですね。
資本主義の範囲内で自由に商売する自由はあるが
資本主義を拒否する自由はない。
これが拡散の原動力にもなっているんでしょうか。
で、当然のごとく教育も資本主義に飲み込まれていきました。
で、結果として教育をビジネスとして考える事が多くなっている。
ビジネスなんだから顧客満足を高める事が大事だ、と、
多くの学校がそう云う方向に向かっている事は事実でしょう。
勿論それが悪いわけではないんですが
副産物として悪いものも生み出しているように思います。
市民の役所に対する(意味不明な)クレームとか、
医師に対する(見当違いな)クレームとか、
どうもビジネスとしての、営業者/顧客と云うフレーム内での出来事が
そうでなかった色々な部分で発生しているんだと思います。
少子化もあってビジネスとしての効率も考えなければ立ち行かないので
仕方のない状況とは思うのですが、
やっぱりフレームとして良いものではないなと思います。


今後の課題は如何にして資本主義から逃れてなおかつ生き延びるか、
なのかも知れないと最近つくづくそう思います。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

更新がんばってください\(^o^)/

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